爆発安全専門部会/過去の専門部会の記録 |
軍艦島見学記
(独)産業技術総合研究所 久保田士郎
1.はじめに 2010年11月17日(水)発破専門部会と爆発安全専門部会と合同で 軍艦島を見学する機会を得たので報告する。 2.軍艦島の歴史 端島(はしま)、中ノ島、高島、池島、松島、崎戸・・・、 長崎県西彼杵郡には炭鉱で栄えた場所が多く存在する (合併で松島と崎戸町は現在では長崎県西海市)。 角力灘に浮かぶ島々で、最初の三つの炭鉱は長崎半島の沖合4.5km程度に位置する。 このうち端島は軍艦島という通称を持ち、外観が戦艦に似ていることによる (大正5年朝日新聞の記事に軍艦島と記述された)。 1890年、端島炭鉱の所有者から三菱へ譲渡され、 昭和の最盛期には41万トンの採掘量を誇った。 エネルギー政策(石炭から石油へ転換)の影響で、 1974年(昭和49年)に閉山され、同月4月には無人島になった。 老朽化のため立ち入りが禁止されていたが、2009年4月末より、 長崎市条例に基づき端島の上陸が可能となった。 3.見学の概要 軍艦島沖遊覧船は長崎港から出港する。 集合は出港の15分前(11時45分)長崎港ターミナルであった。 少し前に到着したので、散歩していると、1973年(昭和48年)頃の端島の模型(1/250)があった。 見学で見られない海底炭鉱の情報(三ツ瀬坑道断面図概要)の記述もあった(図1)。 島は南北に約480メートル、東西に約160メートルで、細長い形状、全周は約1200メートルである。 600m程度のものを含みいくつか竪抗があり、坑道は最深で1km程度、 横方向には約3km遠方の三ツ瀬の岩礁近くまで及んでいた。 さらに、最盛期の人口が5000人をこえて、人口密度世界一と言われていたこと、 1974年に約164年の炭鉱の歴史に幕を閉じたことが記されていた。 図1 昭和48年(1973年)年頃の再現模型(1/250) 集合時間になり参加者が集まると、それぞれ誓約書にサインし、切符を購入して頂いた。 誓約書には危険な行為をしないことや飲食・喫煙の禁止等と同時に、 気象又は海象条件によっては上陸できないと明記されている。 実際、接岸できずに上陸を諦めることがあるそうだ。 月によっては50%代の低い上陸率もあり、21年度7月は34%の上陸率であったとのこと。 平日にも関わらず、我々以外にも若者を中心にツアー参加者が大勢いた。 当日の天候は晴れ、コートを羽織ると汗ばむほどである。 甲板で風を受けながらの景色の堪能を考え、コートを着たまま乗船した。 稲佐山、大浦天主堂、三菱重工業長崎造船所(軍艦島の通称の由来である戦艦土佐はここで建造) 等の長崎の名所の説明を伴い、長崎湾のクルージングからスタートする。 船の速度が速く、風が冷たく感じ始める。 長崎港を出て約20分、三菱重工100万トンドックを右手に見ると 長崎湾から角力灘の大海原へ、波も荒くなる。 伊王島の横をすぎるころから炭鉱の歴史が流れてくる。 その先に高島、中ノ島とつづく。 西彼杵郡のいくつかの炭鉱は江戸時代から開発されていたこと、 佐賀藩所有の炭鉱があり、陶器の炉に使用されていたとのことである。 高島には日本で最初の洋式竪抗が残存している。 中ノ島は明治時代には炭鉱の操業を停止して、その後端島のすぐ横の緑地公園としての役割をになった。 船上のアナウンスとは関係ないが、高島は1988年に発破解体工法の研究開発の一環として、 6階建て鉄筋コンクリート造集合住宅の発破解体が行われた場所で、 その成果は火薬学会誌に掲載されている1)-3)。 図2 軍艦島(軍艦島ツアー船上より) 図3 軍艦島(接岸の直前船上より、右端は端島小学校) 出港して約30分、軍艦島が姿をあらわにする。今でもまさに軍艦である(図2)。 南東の桟橋に接岸する。海は比較的穏やかに見えたが(図3)、 船は波に揺られて接岸に少々時間を要した。 構造物の老朽化が進んでいるために、 見学コースは接岸した桟橋から南の先端部分の一部に限られている。 上陸すると、参加者は二つのグループに分けられる。 ガイドさんの案内に従い3つの広場に順次移動して、それぞれ建物の歴史等の説明を受ける。 降りてすぐの広場からは、瓦礫と化した鉱場建物群の向こう側(島の北端)に、 廃墟となった端島小学校(鉄筋コンクリート7階建)や、 端島で最大の鉄筋コンクリート造9階建の鉱員社宅を見ることができた。 後者は当時では珍しいコの字型をした建物で、屋上には幼稚園が増設された。 一時は(1960年)人口5267人で、東京の9倍もの人口密度であったことから、 密集して高層の建物が建てられたばかりでなく、職員・鉱員の住宅ビルの中に、 郵便局、購買所、幼稚園、警察派出所や寺院までが、共存したそうだ。 映画館(昭和2年)も早くから設置され、パチンコ屋、病院、隔離病棟まで完備された。 鉄が不足した第2次世界大戦当時であっても、 端島では特別に鉄筋の建物が建設されるほどの優遇もあった。 また、1916年に建設された日本最古の鉄筋コンクリート造住宅(図4)もあり、 大正初期に次々に鉄筋コンクリート造の住宅が建設されている。 住宅ビルに明かりがついて海に浮かぶ軍艦島は、近代的な未来都市に見えたに違いない。 一方、公園や庭の整備の余裕はなく、「緑なき島」との通称も持っていて、 建物の屋上で植物を育たようである。 上述のような説明に加えて、海底水道や地下通路、鉱員さんたちの生活の話等、 貴重な情報を聞きながら上陸見学は終わった。 帰路の船中では端島の歴史がまとめられた映像を繰り返し見ながら長崎港へもどった。 炭鉱は火薬類の応用現場であり、 採炭発破技術開発や保安対策等で火薬学会誌に投稿された論文でも研究対象とされていた。 この機会に、端島でも採炭が最盛を迎えた1960年代前後の論文4)に目を通すと、 多くの高いレベルの論文に驚かされた。これらの論文を読む必要がある。 図4 日本最古の鉄筋コンクリート造住宅(1916年(大正5年)) 4.まとめ 貴重な体験をさせて頂いたことに感謝する。 使用させて頂いた写真は構造安全研究所の加藤氏、 ならびに中国化薬株式会社の小倉氏よりご提供いただいた。 なお、当日のツアー参加者は発破専門部会から、 茂木部会長(東京大学)、伊藤(相模工業)、角谷(日油)、 橋爪(火薬学会)、丸太(日本火薬工業会)、米田(火薬学会)、加藤(構造安全研究所)、 火薬学会から吉田忠雄先生、 爆発安全専門部会からは、飯田部会長(産総研)、新井(東京大学)、中山(産総研)、 栗原(日本火薬工業会)、小倉(中国化薬)、松井(日本煙火協会)、 久保田(産総研)の合計15名であった(図5)。 図5 集合写真 参考文献 1) 黒川孝一・吉田忠雄・斉藤照光・山本雅昭・中村重幸, 工業火薬,54,6,255(1993) 2) 笠井芳夫・斉藤照光・関洋一・石橋穣治・富田幸助, 工業火薬,54,6,265(1993) 3) 澤田一郎・山口梅太郎・小林直太・中軸美智雄・柴田秀昭・新藤孝志, 工業火薬,54,6,272(1993) 4) たとえば、岩石発破の基礎研究に関する誌上討論会, 工業火薬協会誌, 19,1,1(1958)、 篠原昌史, 工業火薬協会誌,19,4,240(1958) |
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